初代橋本・2代山元・3代山内3会長「外伝」

  ――東海病院管理学研究会40年余の系譜――    

1.はじめに――チンドン屋調の前口上――

 名古屋大学大学院医学系研究科 医療管理情報学の山内一信教授が本平成19(’07)3月末に定年退職されるのを記念して、初代橋本義雄会長、2代山元昌之会長、現3代山内一信会長の下に昭和41(’66)年以来、40年余に亘り活動を続けてきた東海病院管理学研究会の歩みを3人の会長「外伝」の形で小稿に纏めてみたい。

 3会長それぞれに本務での活動実績があり、それらは他の資料や本誌の他の寄稿で展開されようから、ここでは私の記憶、メモ、手許にある不完全な資料を使っての漫筆になる。可及的に事実確認の照合をしたが、それには当然限界があり、私の老耄・自己陶酔によるフィクション部分も含まれよう。「外伝」は得てしてそういうものであろう。

 最初の方の橋本初代会長関連の記述では、病院管理学というより、そのごく一部分である診療録管理に関するものにしぼりたく、真ん中の山元2代会長関連の記載では、本題とは関係がない「梅号」作戦についてのエピソードで大きな紙幅を占めさせたく、最後の山内3代会長関連では本誌の他の寄稿ではおそらく触れられていないであろうことを中心にして書き進めたい。

 さて、どんな運びの物語になりましょうか。あとはお読み頂いてのお楽しみ。東西東西!!!。チンチンドンドン・・・。ピーピーピ・・・。

2.橋本教授卒業試験の恐怖――問題予想がつかない――

診療録は病院の宝であり、医学・医療の原典であることは、医療人の頭に古くから刻み込まれているが、診療情報管理を実践で示すことは必ずしも容易ではない。カルテと俗称される紙綴りの膨大な数の塊を整理保管することは、気が遠くなるほどの大仕事であり、それ以上に、忙しい診療の最中に後で参照に値するだけの質と量を持った記載(現在ならば、電子カルテへの入力)をすることは、実行不可能に近い難事である。半世紀以上前に名古屋大学医学部(以後、名大・医)で卒前教育を受けていた私の目の前に、この一大難事に挑戦し、ごく不完全ながらも夢の実現の糸口を作った方が現われた。

 それは、昭和20年代末に名大・医・第一外科の教授に着任した橋本義雄名誉教授<明治37(’04)−昭和61(’86)>その人である。橋本先生は昭和4(’29)年に名大・医(当時は愛知県立愛知医科大学)を卒業後、その第一外科で研修を受け、同科の創設教授・齋藤眞先生<明治22(1889)−昭和25(’50)、大正4(’15)年東大・医・卒、大正6(’17)年愛知県立医学専門学校・外科講師、大正8(’19)年同教授、その後、同医専の昇格による医大、国立移管、総合大学創立の経過を経て最後は名大・医・教授、附属医院長、現役のまま物故>の女婿ともなり、昭和12(’37)年には翌年開設予定の台北帝國大学第二外科の助教授(別の資料によると台北帝大医専教授)に転出した。なお、昭和13(’38)年に同第二外科講座着任の河石九二夫教授<明治28(1895)−昭和48(’73)>は、東大・医・大正10(’21)年卒で昭和4(’29)年に齋藤教授の下での名大(当時の愛知医大)外科助教授に招聘されてから、東大で学んできた輸血療法を展開し、日本での同療法のパイオニアのひとりに成った。齋藤教授は大正9(’20)年から大正13(’24)年にかけて脳外科の研究で欧州各地へ留学したが(その間は、東大・医・近藤外科の同門の田中義男医師が代理教授を務めた)、フランスで輸血療法の進展を目の当たりにしたという経緯がある。河石教授は終戦後も地元から懇請され台湾に長く留まり昭和24(’49)年に帰国し広島医科大学教授に就任した。

本題に戻って、同講座助教授の橋本先生も戦後に台湾から引き揚げて、一時、遠隔の地(長野県下の現大町市)での開業医生活を経、昭和24(’49)年に徳島大学外科教授に迎えられた。そこから昭和28(’53)年に母校の名大へ教授として戻ってきた<詳しい資料に当たると、昭和28’53)年11月に徳島大学教授と名大教授を併任、翌年3月に名大教授に専任>という多彩な経歴を持った方である。昭和43(’68)年に名古屋大学を定年退官して名誉教授になられた後に、昭和47(’72)年には翌年開設予定の愛知医科大学(上述のかっての愛知県立愛知医科大学とは別の新設私立医大)の学長に就任した。昭和51(’76)年に同学長を退任したが、その際にはいろいろな学内事情があって、昨年(平成18年)刊行された愛知医科大学30年史・通史によると、かなりもまれて苦労を重ねられたようである。橋本先生は多趣味で社交性に富み、学生間に人気があって、徳島大学離任時には学生グループが留任運動を起こしたと新聞に報じられた。

 橋本先生の名大着任の際、当時、医学部の最終学年(当時の学制では旧制高校卒業後の大学コースで医学部などは4年、他学部は3年で卒業)であった私は、23年先輩の若手医師たちから新しく橋本教授を迎えた第一外科の現況を聞かされた。そのひとつであるが、受け持ちの入院患者が退院した折、担当医が入院要約をまとめ、それをカルテ類一式に付けて、カルテ係(当時は、カルテ管理が各診療科別で、看護婦や新米医師がその役目を宛てがわれていたと記憶する)に出すという通例に沿わず、その患者担当医師のうち一番の若手が教授のところへそれを持って行き点検を受け、教授の捺印を受けて初めてカルテ係のところへ回る方式の由。勿論、めくら判では到底あり得ず、入院要約の作成遅れはもとより、入院経過中の診療経過記載や手術記事などの一切に厳しい目が注がれ、教室員はその場で指導・叱責を受けることに成る。何十人かの医局員を抱える大教室であるから、主任教授が手ずから患者診療を指導できる範囲は限られ、1〜数年先輩の医師が後輩医師を教える屋根瓦方式が医局教育の大部分であろうが、患者診療の経過はカルテにしっかり記載されていなければならぬ。教授によるカルテ最終点検は誠に要を得た臨床教室運営方式といえよう。

また、橋本教授は若手医師持参のカルテ点検の際、傍らのパンチカード(コンピュータ出現以前の時代での情報検索の最有力手段)を操っておられたという。すなわち、橋本先生は、現在、私なども関係している診療録管理学や医療情報学の分野での大先達であったとも言えよう。

 これらの例で見られるように、3代目橋本教授摩下の第一外科は、鼻祖・齋藤眞、2代目戸田博両教授による厳しさの伝統を継ぐ学風があると学生間で噂され、インターン終了後(当時は、4年間の医学部卒業後、医師国家試験の受験前に1年間のインターンとしての臨床実地修練の期間があった)、その学風を慕って第一外科に入局した同級生もいたし、逆にそれを敬遠し他の教室へ入った人もいたと記憶する。

 橋本教授のカルテ重視の信念は、当時の私ども学生にも関わりが及んだ。臨床科目の講義・実習は医学部34年生の時期を中心に行われていたが、各科目の修得評価は最終学年の4年生の終わりの卒業試験である。筆記試験や、外来患者を前にしての教授による口頭試問、教授室での設問くじ引きによる口頭試問など、診療科によっていろいろのやり方があったが、第一外科に関しては橋本教授の独特の試験があった。何人かの学生が教授室に集められることは、他の口頭試問方式と同じであるが、教授の机の上には問題ではなく、入院患者のカルテが何冊か並べられている。上述の教授最終点検を経たものがそこに残されていたと思われる。

 その中の1-2冊を取り上げて、最初の頁に記載されている入院時までの病状経過の要約を橋本教授が学生に読んで聞かせる。そこには、患者の主訴、現病歴、既往歴、社会歴、家族歴などが載っている。「これで、何を考えるかね?」が最初に指名された学生への質問。次に2頁目に進み、そこに記載されている身体検査所見を教授が読み上げる。「この記載で観察が欠けている点はありますか?」と、次の学生への質問。「検査は何から始めたらよいのでしょうか?」、「実は、その検査でこういうデータが出てきました。診断を付けて下さい」、「治療はどう進めるのでしょうか?」と、カルテを繰りながら、次々と質問の矢が放たれる。

 私のグループの場合、出された症例の屋外での外傷とも関係して、話が破傷風予防対策におよび、全員がたじたじとなり総員討ち死にも覚悟したが、どうやら1回だけで通して貰えたようにあいまいながら覚えている。2回、3回と呼び出された組もあったようで、我々は最低ラインで突破したのか、それとも、このグループは余りにもひどいと橋本教授から見放されたのか、今もって分からない。ともかく、橋本教授の口頭試問のテーマは、そのとき最終点検が済んで教授の机の上にたまたま並んでいた何冊かのカルテ次第で決まるわけで、ほかの科のように大体の出題予想を先輩から教えて貰って、それを中心ににわか勉強をするという手が打てない科として、学生から大変恐れられていた。ただし、われわれ昭和29(’54)年卒の仲間は橋本先生の名大教授着任後の最初の卒業試験受験クラスであり、この橋本方式が以後の年次のクラスにも取られていたかどうかは確認できていない。1年後の昭和30(’55)年卒のクラスでは、割り箸を束ねたおみくじを引いて、問題が与えられた由である。

3.雑魚の集まりに超大物の顔出し――橋本先生の本気の診療録管理――

橋本教授のカルテ重視の信念の実証は、それから10年近くあとにも示された。医学部卒業後、インターンを経て大学院、何年かの海外武者修行を済ませた私は、もともとの心電図(当時の最新診断技法のひとつ)の勉強に海外直輸入のコンピュータ技法(当時は、1543年の種子島鉄砲伝来に匹敵する革新兵器で、私は名大全学のコンピュータ・プログラミング講習会の講師にも狩り出された)を上乗せして、心電図コンピュータ診断、さらに脱線が進んで、カルテのコンピュータ保存・即刻検出の真似事へ発展させていた。200例ほどのごく簡単な内容のカルテを、機能は現在のポケット電卓に毛が生えた程度であるのに、図体は大きな部屋いっぱいを占める当時の電算機システムへ入れて、「本邦第1例」(私が知らなかっただけで、似た事例は国内各所にあったのであろう)などと勝手に称して、岩塚徹先生(後の愛知県総合保健センター所長、現在、東海病院管理学研究会名誉会員)、安井昭二先生(後の国立名古屋病院院長、現在、同研究会顧問)らの研究仲間と組んで、関係学会の地方会、全国集会、さらには、たまたま日本開催が回ってきた国際学会にまで発表していた。ものを知らぬことほど強いことは無く、いま振り返れば冷汗三斗の思いがする。ともかく、現在の常識になっている電子カルテの先駆けをやっていたことになる。

 前置きが長く続いてしまったが、このような「羊頭狗肉」の仕事を一生懸命続けていた時代に、この古典的「電子カルテ」方式の講演・実演の小集会を大手企業の名古屋支店の講堂で開いたことがある。その支店に設置されていた大型(図体だけの話)コンピュータを産学共同研究の形で、この「電子カルテ」研究に使っていたのである。本小稿の表題にあるように橋本先生を初代会長とする東海病院管理学研究会の発足は今から40年余前の昭和41(’66)年であるが、その前後のことである。ガリ版印刷か手書きのはがきの何十枚かで開催連絡をしていた時代であるが、それでも20名そこそこの若手が集まったとうっすら覚えている。そこへ超大物の橋本教授が突然に姿を表した。そのときは名大医学部長の職にあり、医学部公用車で何人かのお供を同伴していた。同伴者が誰であったかの記憶は全く残っていないが、橋本教授の配下の第一外科・弥政(いよまさ)洋太郎、榊原欣作両先生(いずれも東海病院管理学研究会発足時の役員、弥政先生は先年物故、榊原先生は現在、同研究会名誉会員)や病院事務部の山元昌之部長(初代橋本先生に継ぐ同研究会2代目会長、元日本病院管理学会名誉会員、平成6(’94)12月に物故。5.〜10.で詳述する)などではなかったのか。

副手(大学病院内だけの便宜措置による地位で、無給、無社会保険)からようやく助手(文部教官としての正式地位で、もちろん有給、社会保険つき)に拾い上げてもらったばかりの私やその仲間の若手が勝手に催した小会合に、医学部長がお供を何人か連れて出るということは破天荒の話である。売り手がその実態に気付かぬままに店頭へ出した「狗肉」に、立派なお客の目が注がれたと涙を流さんばかりのうれしい気持ちがした。「狗肉」と自己卑下していたのは売り手の不明であって、上客はそれが「羊頭」であることを見抜いていたというのが本当かもしれない。橋本先生のカルテ重視の意図は、単なる一時的な思い付きや、学会・世間の風潮に乗っただけの付け焼き刃では決してなかったと私は言って置きたい。

 上の話に前後するが、国立大学病院としては最初のカルテ部が、橋本医学部長の手腕で名大病院に発足した。そのちょっと前から、私は医学部の籍から離れて、医学部関連ではあるが、組織上は全く別個で場所も鶴舞地区ではなく、名大本部の不老町(名古屋市の当時の東郊)キャンパスにある名大・環境医学研究所に移っていたので、毎週のように医学部の門をくぐっていたとはいえ医学部の部外者に相当し、詳しい事情の理解・記憶はない。その前提で述べると、カルテ部という名前は他の国立大学病院で存在していた例があったかもしれない。もし、そうであったとしても、病院事務部長辺りの裁量でそういう名前の部屋を融通し事務職員が仕事を担当している形式であったろうと思われる。戦前からの診療科ごとのカルテ保存ではいけないということで、その業務の病院中央化を実現しようとするなら、当座はこの方式にならざるを得ない。

 名大病院では院内に医事用紙等検討委員会が昭和38(’63)年から設置され、橋本先生が委員長に就任していて、カルテ・サイズのB5判への全診療科統一、カルテの表紙に当たる1号紙の全科共通化などの仕事が進められていた。橋本医学部長や前出の山元昌之病院事務部長などが本省(当時の文部省)相手に交渉を重ねた結果として、昭和40年には全国最初の国立大学病院カルテ部が名大病院で正式発足した。そこには、事務職だけでなく、文部教官・助手の席が院内融通でひとつ設けられた。病院内の委員会より推薦を受け、昭和41(’66)年にその地位へ最初に付いたのが前出の安井昭二元国立名古屋病院院長である。今、振り返ると、この全国初のカルテ部設置は非常に重大なステップで、これを足場として後に名大病院医療情報部が創設され、また、全国の各国立大学病院への医療情報部設置の誘い水のひとつに成ったといっても過言ではない。

4.東海病院管理学研究会の誕生――40年も続くと思わなかった――

 東海病院管理学研究会(事務局:名大・医・医療管理情報学教室)は、上述の如く橋本義雄初代会長に次いで、2代目の山元昌之会長(前出)、現在の3代目の山内一信会長(前出)と昭和41(’66)年以来、連綿と続き、昨平成18(’06)年に40周年を迎えた。その間、年4回の研究集会開催と、毎年の年報(研究集会での発表抄録などを掲載)刊行をほとんど欠かしていない。研究集会は第160回を先日迎えたし、年報の最近の部分は同研究会ホームページにも搭載されている。これにはここ10数年ほどの事務作業をボランティア担当している水野智・前日本赤十字豊田看護大学教授の貢献が大きい。同研究会はわが国の病院管理学についての地方組織として、もっとも古いもののひとつであり、全国から注目を集めている存在と言えよう。故橋本義雄名誉教授のこの分野でのすぐれた着眼と人並みならぬ実行力で生まれたのが、名大病院カルテ部であり東海病院管理学研究会であることをここに記して、その功績を称えたい。なお、この研究会の誕生については6.で改めて触れる。

<1.〜4.の執筆には、名大・医・第一外科の名称での最後の教授である二村雄次教授(平成19(’07)3月の定年退官時には、名大・医・病態外科学講座・腫瘍外科学教授)の平成17(’05)5月の日本外科学会定期学術集会主宰に際し、同教授の恩師・塩野谷恵彦名誉教授が中心になって編集され同外科同門会の同心会によって刊行された「名大・医・第一外科のあゆみ」、および、昭和36(’61)年刊行の戸苅近太郎・青井東平編「名古屋大学医学部九十年史」が大きな参考になった。また、本稿はこの塩野谷恵彦名誉教授と前出の安井昭二元国立名古屋病院院長のお目通しとご助言を頂戴している。記して深甚なる謝意を表したい>         

5.わが国病院管理学の鼻祖のひとり山元昌之先生――大物事務部長の出現――

 名大病院事務部には名物ともいえる偉い大先生が居られて、病院管理学の専門書も刊行されたとかいう話が、今から何十年も前に学内・学外へ流布されていた。それが山元昌之先生その人である。その分野では最も格が高い日本病院管理学会の学術集会の開催が過去に4回、東海地区へ回って来た。ずっと以前の第8回<昭和45’70)年>が山元昌之会長の下で開かれた(会場:名古屋駅前に新築された超高層ビル ミッドランドスクエアの場所に以前あったホテル・ニュー・ナゴヤ)。平成元(’89)年には第27回が森日出男・藤田保健衛生大学教授(現名誉教授)を会長として開催された(会場:名古屋市東南郊の同大学キャンパス)。次いで平成8(’96)年には第34回が針谷(はりがい)達志・朝日大学経営学部教授を会長として開かれた(会場:岐阜市・長良川国際会議場)。さらに昨平成18’06)年の第44回が山内一信会長の主宰で開催(会場:名古屋市・名古屋国際会議場)された。すなわち東海地区へ同学会の学術集会を最初に引張って来られたのが、その山元昌之先生である。

 山元先生は偶然に橋本先生と同じ明治37(’04)年のお生まれ(滋賀県大津市)で、昭和6(’31)年に同志社専門学校(現同志社大学)を出られた後、文部省に仕官され、昭和9(’34)年に当時の名古屋医科大学(現在の名大・医)へ書記として着任し、以後、滋賀大学(当時は彦根高等商業学校ではなかったのか)事務局長、大阪学芸大学(現大阪教育大学、当時は大阪第一師範学校ではなかったのか)事務局長を歴任し、その後、名古屋帝國大學醫學部附属醫院事務長心得<附属医院ではなく附属病院と呼ばれるようになったのは、昭和24(’49)年から。また、ここだけは当時の漢字によって記載する>、やがて、同事務部長<ただし、事務部長としての発令は、昭和34(’59)4月であり、後で7.および、8.で詳述する山元先生の戦時中の活躍の頃の肩書きは、事務長ではなかったのか>として長く勤務され(名古屋帝大で学生課長などを歴任という記載もあり)、昭和40’65)年2月に定年退職された。なお、現在でもそうであろうが、当時の文部省官制では大学医学部附属医院が所属する医学部の事務長より、予算も定員も医学部よりぐっと多いという事情で医院事務部長の方がはるかに格が高かった。山元先生は名大の医学部および同附属医院の全体を通じて最高の事務官職に就いておられたことになる。山元先生は日本病院管理学会の草分けのおひとりで、数多くない理事として同学会の発展に寄与され、後年、名誉会員への推戴も受けられた。上述の名古屋での同学会学術集会主宰は名大退職後であるが、その開催にも関連して東海病院管理学研究会の創設に大きく貢献された。

 昭和42’67)年刊行の山元昌之著「病院管理の理論と実際」は、わが国のこの分野の最初の専門書のひとつであり、その後、それぞれ幾分視点を変えて著作・刊行された第2作、昭和55’80)年の「現代病院経営概説」、そして80歳を超えてからの第3作、昭和62(’87)年の「現代病院組織概説」と引き継がれている。いずれも内外の文献・著作を渉猟しての迫力ある内容のもので、刊行以来、相当の年月を経た現在でも目を通して教えられるところが多い。

 ちょっと脱線して、日本での病院管理学の専門書刊行の系譜を辿ろう。私が調べ得た限り、分厚い本として最初に出たものは、昭和32(’57)年刊行の島内武文先生(東大卒後、内科で研修し、米国で病院管理学を学び、日本最初の東北大学・医・病院管理学講座の初代教授に就任)の「病院管理学・全2巻」、その次の分厚い本は、昭和43(’68)年刊行の今村栄一先生<国立東京第一病院(現在の国立国際医療センターの前身)小児科>の「病院管理の理論と実際」である。上述の山元先生の第1作は、サイズこそやや小ぶりであるが、その今村本刊行の1年前の昭和42(’56)年の刊行である。花の都の東京に対比して、時々、偉大なる田舎と揶揄される名古屋からの著述(出版は東京の出版社から)であり、当時の山元先生の心意気と苦労を如実に示すものといえよう。なお、全67冊で全部を立てて並べると何十センチかの幅になる「病院管理大系」なるシリーズものが、昭和45(’70)年〜同55(’80)年に掛けて刊行されているが、この中でも山元先生は病院財務管理の章を分担し、細かい字で35頁にわたり筆が進められている。

そんな訳で名古屋に「山元」ありの呼び声は日本全国に広まり、東海地区の病院管理学に関しては鼻祖であり大ボスであった。私が昭和50年頃に日本病院管理学会の評議員の末席に加えて頂いたり、昭和61(’86)年に名古屋での第12回日本診療録管理学会学術集会の設営担当を仰せつかったのも、すべて山元先生のお声掛りによる。その学術集会設営の際は、設営担当者として資金集めにうろたえていた私が知らぬ間に、山元先生が顧問役をしておられた病院管理学関係の専門学校からの大口の協賛金提供の口利きもして頂いていた。昭和60(’85)年に、それまで名大病院カルテ部に勤務していた事務員・宮島政雄さん(故人)が定年退職の折、すぐ名古屋掖済会病院カルテ部に職を得たことも、同院院長で愛知県医師会長や愛知医科大学理事長を歴任した超大物の太田元次先生と山元先生との7.および、8.で後述する戦時中の深い付き合いに由来する。山元先生は学識と実力を兼ね備えた大先生であった。

 山元病院管理学が花開いた基礎のひとつは、山元先生の英語読解力(ドイツ語もか)ではなかったかと私は思っている。現在でもそうかもしれないが、大学附属といえども病院事務関係には高学歴の人は殆どいなかった時代に、まともな大学卒であったのが山元先生であり、そして原語論文がすらすら読めたというのは鬼に金棒であったろう。病院管理学の盛んな米・英両国の専門誌を永年購読しておられ、上述の幾つかの著書執筆の発想の元はこの専門誌にもあったのであろう。ご高齢になられた折、永年にわたり購読・保存しておられたその雑誌の全部<英国のThe Hospital誌の60-71(’64-’75)、米国のHealth Services Research誌の1-10巻(’66-’75)>の寄贈を受けたのが、私がかって在職していた大学の藤田学園医学・保健衛生学図書館である(古い資料であるので、それらは既に同図書館から除籍・破棄されている)。名大附属図書館には受贈を断られた結果からかも知れぬが、藤田学園の図書館員に自動車で山元先生の名古屋市西北郊のお宅までそれを受け取りに行ってもらい、その際、あらかじめ百貨店文具部に依頼して書かせてあった寄贈への感謝状を、寄贈雑誌と引き換えに山元先生のお宅へ置いてきてもらったという経緯も記憶している。

 ふたたび脱線であるが、上述の日本の昔の病院管理学の専門書を渉猟中にぶつかった記載によると、世界の病院管理学の発祥は(英語圏での発祥と理解すべきか)英国であり、それが大きく花開いたのが戦後の米国である由。ただし、私などが大昔に先輩から耳にたこが出来るくらいその名を聞かされた近代病院管理学のバイブル、MacEachern MTの「Hospital Organization and Management」は昭和10(’35)年の刊行であり、米国での病院管理学は戦前にすでに体系を成していたと言えるのではないか。もっとも英国でのバイブルとしてのStone JEによる同名の著述の刊行は、その8年前の昭和2(’27)年であるので、その意味では英語圏の病院管理学(むしろ病院事務取扱法と呼ぶべきか)は英国が発祥地という記載もまんざら間違いとはいえない。

しかし、英米両国からのこれらふたつの本を並べてみると、出版が8年遅いことを考えに入れても、米国のバイブルの方に圧倒的に分がある。英国版はA5判相当、642頁とやや小振りで、医師や病院管理学者(その頃はなかった職種)対象というより病院事務職対象にごく平易に述べられており、診療録管理にも話題が及んでいるがわずか3頁で片付けられている。一方、米国版はB5判相当、954頁で重さでは英国版の2-3倍はある大冊であり、持つ手にぐっとこたえる。内容も重厚で平易な記述ながらレベルは高尚で診療録に関しては92頁にわたって詳細を極めて記述され、後世のPOS方式を先んじるような診療録記載法を薦めている。巻頭に医行為の基準が一頁にまとめて掲げられているが、その幾つかの中に正確で完全な診療録(X線写真や病理組織の所見を含む)を残すべきことが示されている。この米国版バイブルは病院管理学の専門書として今日でもほとんどそのまま通用するといえよう。それに比し英国版バイブルはいわば初心者用で、病院管理学書というより病院事務マニュアルとでも呼ぶべきものと思われる。病院管理という概念は英国で先に始まったのかも知れぬが、学問として発祥、発展したのは米国であると私は言いたい。

記述が遅れたが、米国版バイブルの著者、MacEachern1880(明治13)年代のカナダ生まれのようで、’10(明治43)年のカナダ・モントリオールのマックギル大学・医卒の外科・産科系の大御所医師であり、米国病院会の会長も履歴した大物である。本の重さはもとより、内容も著者も、英国版と米国版(正確にはカナダも含めて北米版と呼ぶべきか)では、幕下級と横綱級の差があるといえよう。英国版の著者Stoneにはcaptain(英国の兵隊の位でいうと、陸軍大尉、もしくは、海軍大佐)なる肩書きがつけられている。英国の社会制度に明るくなく病院ではそれがどんな立場か判断できないが、professorとかdirectorよりは低いのではないか。そうだとすると、キャプテン・ストーンの著書と総大将マッキーケルンの著書を比較するのは、前者にとってかなり酷になる。余分な話(しかし、病院管理学にとっては決して無駄ではない事項)を続けたが、病院の事務部長(これを英国ではcaptainと呼ぶのか)の身でありながら、病院管理学の実力と実績ではそこらあたりのprofessorをはるかにしのぐ山元先生という大物が、日本に、しかも、名古屋に実在したという本題に戻りたい。

6.山元先生と東海病院管理学研究会――産みの親・育ての親――

 5.で述べた昭和45(’70)年の山元先生主宰で開催された日本病院管理学会学術集会の誘致の受け皿作りの意味もあったであろうし、昭和42’67)年の名古屋での第17回日本医学会総会の開催に協力する意味もあったであろうが、東海地区での病院管理学の勉強会組織を作ろうと山元先生が発案され、山元先生とたまたま同年齢(前述)で病院管理に関心が深かった橋本義雄名大・医・第一外科教授(2.〜4.で詳述)を会長に担いで、東海病院管理学研究会なる組織を昭和41(’66)年に創設された。その設立の経過、当初の組織などは本誌の他の箇所に正式に記載されようから、ここでは概略に留める。

橋本会長の下に、山元先生と前出の榊原欣作先生が幹事を務め、その下の世話人として阿久津慎(名鉄病院、所属はいずれも当時)、岩塚 徹(愛知県中央健康相談所)、弥政洋太郎(名大・医・第一外科)、柳沢忠(名大・工・建築)、吉田尚美(四日市築港病院)の諸先生や私(名大・環境医学研究所)が加わっている。名大・環境医学研究所助教授などを歴任し名古屋市の名鉄病院長の地位にあった阿久津慎先生は、後に日本病院会会長を1期<昭和50(’75)年−昭和52(’77)年>務めるなど、病院管理に一家言ある論客であった。

 橋本会長は本職で超多忙の身であってひな壇の内裏様の役割、幹事・世話人会では年齢から言っても実力から言っても月とすっぽんの差で、山元先生のひとり舞台、何もかも山元方式で会務が進められた。日本病院管理学会は東海病院管理学研究会発足のたった3年前の昭和38(’63)年に創立されたばかりで、当時、各地方へ支部組織を置く制度はなかった。しかし、同学会のいわば東海支部というつもりにこの研究会を位置付けし、同学会会員で東海地区在住者には自動的に同研究会の1号会員としての入会を勧誘し、同学会の会員ではなくて、この研究会にのみ入会を希望する人は2号会員としての、また、病院や関連事業体(建築事務所を含む)は3号会員としての入会を求めた。それぞれ年会費や会員特典を異ならせる方式である。普通の学術団体なら、正会員、準会員、賛助会員とでもするところを、1号、2号、3号などの耳慣れないお役所用語になったのは、名大病院事務部で永年にわたり中央官庁と渡り合ってきた山元先生の発案である。

 研究会の運営、特に年4回開催の研究集会の設営は、1号会員の中から選出された何人かの幹事が中心になって進められた。1号会員(当初は10名そこそこ、現在は数十名)の全員を世話人とした世話人会の会合は、毎年度1回開かれ、そこで前年度の事業および会計の報告が行われ、あわせてその年度の事業計画および予算案の承認を得るというのが現行の方式であるが、このやり方は発足間もない頃から実施されていたと記憶する。

 毎年の世話人会の下打ち合わせを、何人かの幹事でやる集まりも毎年度必ず開かれるのが、律儀な山元先生の流儀であった。山元先生と庶務担当の役員(発足当初は榊原欣作先生、30年位前からは山内一信先生と記憶し、最近の10数年は前出の水野智先生)に一任というわけには行かぬようで、以前は名古屋市中心部から幾分離れたところ(名古屋市の東南郊の豊明市)に勤務していた私は、実は幹事のひとりとして下打ち合わせ会の招集を受けて、いつもいささか持て余していた。あるとき山元先生が長期入院中であって何人かの幹事が病室までお伺いして、この事前打ち合わせ会を開いたこともあった。

 付け足しであるが上述の第17回医学会総会の昭和42(’67)年の名古屋開催に当たって、その学術展示に関連して愛知県医師会とコンピュータ企業H社の共同企画の「電子計算機実演会」を開く話が持ち上がって、発足当初の東海病院管理学研究会を通じてであったか、別ルートであったか記憶が定かではないが、協力を請われた。いずれにしろこの道で東海地区から出てくる人はほぼ決まっていて、担当として前出の岩塚徹先生や私などが、少し設営のお手伝いをした覚えがある。大した作業をしないうちにPR専門大企業(電通)が上手に取り仕切って立派な展示パネルを作ってくれ、流石と感心したが、それ相応の料金負担が主催者側にあったようで、PR会社というのはそういうものかと改めて認識させられた。この医学会総会の翌年に刊行された総会記録写真集の大冊をくると、同時に開かれた「新しい病院展」(これには前出の柳沢忠先生らが協力されたと記憶する)の内容と並んで、その電子計算機実演会の情景(コンピュータによるレセプト作成など)が出てくる。そこでは記憶媒体に紙テープも使われており、一方、病歴管理に関する展示パネルではコンピュータ検索によるマイクロフィルムの活用をうたっている有様で、現在の電子カルテ方式から見ると今昔の感に堪えない。東海病院管理学研究会の草創期のひとつの出来事として記載しておきたい。

7.汪兆銘主席の名大医院入院――梅号病棟関係の動き――

 時代はぐっとさかのぼるが、戦時中、名大病院(その当時は、名古屋帝國大學醫學部附属醫院が正式名称)で外国元首の入院のため専用の防空壕を作ったとか、その方の見舞いに東京から時の総理(東条英機陸軍大将)が名大医院を訪れたとかいう話をしても、今では信用してもらえないかもしれない。実は本当の話で、戦後間もない昭和25年に名大・医へ入学した私は、まだ一部が残っていたその防空壕の盛り上がった土の上へ登ったようにも記憶する。病院管理学とは直接の関係はないが、山元先生が名大医院事務部の責任者として舞台へ大きく登場された場面であるので、ちょっと脱線して筆を進める。なお、山元先生は非常に端正な顔立ちとすらりとした長身の持主で、そのまま歌舞伎の舞台へ出られても何の不自然もない美形であった。

 昭和12’37)年に日中戦争(当時は支那事変と呼んでいた)が始まり日本軍が中華民国の当時の首府・南京を攻撃・占領した結果、同国の蒋介石総統は中国奥地の重慶へ政府を移したが、日本は蒋介石と袂を分かった汪兆銘(号が精衛)を主席に担いで中華民国国民政府なるものを同じ南京へ置いた。後に傀儡(かいらい)・王兆銘政権と呼ばれるものである。昭和19年、その汪が激しい背中の痛みをうつたえる病気になったので、日本政府は黒川利雄・東北大学・医・教授(消化器学者、後に同大学学長、日本学士院院長、文化勲章受賞)や、次いで、当時、外科で全国に名声を馳せていた前出の名大・医・斉藤眞教授を軍用機で南京まで往診に行かせた。黒川・齋藤両教授は同じ東大・医出身というより、共に旧制第二高等学校(仙台)卒業ということでつながっていた。

そして名大医院での診療の必要有りとの齋藤先生の方針で、名大医院は「梅号」作戦(梅号は汪主席を指す暗号)という名称で急遽して極秘のうちに準備を始めた。すなわち、特別病棟フロア(4階)の入院患者をすぐ他の病棟へ移すとともに、そこに改装(といっても、汚れた壁を白布のテーブルクロスで覆った程度)を加え、同時に、すでに予想されていた米軍機の空襲に備えて特別病棟フロアの横の地面へ穴を掘って、汪夫妻やお付き要員用の防空壕を作った。それらの準備が充分出来ないうちに、汪主席一行は待ちきれず名古屋へ向かい(岐阜県の各務原飛行場へ到着)、名大医院へ入った<昭和19(’44)3月>。

 梅は、日本で桜が愛されるように、中国で広く人々に愛され、汪主席はとりわけ梅が好きであったことから「梅号」という暗号が使われた由である。汪主席の入院は当時、極秘とされ、名大医院の周囲は警察や憲兵で厳重に固められ、また、布切れで作った梅模様の名札をつけねば、梅号病棟へ出入りは出来なかった。また、汪主席の没後であるが夫人が名大医院へ3本の紅梅を寄贈し、そのうちの2本が大きく育って今でも毎年の春先に花を咲かせている(現在はもともとの所在地である名大・医の鶴舞地区から大幸地区へ移植されている)。当時の話によると、汪主席入院は、折角、極秘にしていても、汪夫人が町へしばしば買い物に出掛けたことから、要人入院の噂がだんだん広まってしまったようである。

汪主席の入院の頃、日本は敗色が濃くなりつつあった時期ではあったが、日本政府は傀儡政権を通じての中国との関係を最重要視したく、超豪華な主治医団を組織して診療に当たらせた。齋藤先生を中心にして、名大・医・附属医院長・勝沼精藏・第一内科教授(血液学者、後に名大総長、文化勲章受章)、同病院・名倉重雄・整形外科教授(後に学士院賞受賞)、同病院・田村春吉・皮膚科教授(後に名大総長)、同病院・三矢辰雄・泌尿器科教授、東大病院・高木憲次・整形外科教授(東京を離れて名大医院に詰めきり)、それに上述の黒川利雄教授という豪華メンバーの主治医団であった。

 仙台の黒川先生は頻繁に診察というわけには行かなかったであろうが、名大病院にいた主治医団は毎回の回診の際、梅号病室の前に10分前に勢揃いし、予定の時間きっかりに扉をノックして病室へ入られた由。このことがかねて時間厳守を自身で堅く守っていた汪主席を非常に喜ばせ、主治医団への絶大なる信頼が寄せられたという話である。主治医の他の先生にも同様に贈られていたかと思われるが、汪主席から齋藤先生へ贈られた立派なすずりには、自筆かどうかは分からないが、箱に齋藤先生の名前と謝辞、および、汪主席の名前が金文字で入れられていて、それが現在も名古屋大学博物館に所蔵されている。20年ほど前、あるパーティで高齢の黒川先生(今は故人、当時は日本学士院院長)にお会いする機会が私にあったが、「名古屋大学医学部出身です」と申し上げたら、汪主席の主治医団の話になり当時を懐かしんでおられた。

この汪主席入院に際し、齋藤教授の指名で第一外科医局員として受持医になったのが前出の太田元次先生である。太田先生は、名大・医を卒業直後、軍医になり2年ほど中国中部に派遣されていたが、この中国滞在経験から汪主席担当を命じられたと伝えられている。当時、30歳を少し超えたばかりの太田先生は間もなく軍医として召集を受けたが、赴任予定のサイパン島へ出向くのではなく、軍服姿で現役軍医として梅号病棟勤務を続けるよう命じられて、即日、戻ってきた。太田先生が属していた名古屋市駐屯の第43師団のサイパン島出陣組は、やがて同島で玉砕、全員戦死した。太田先生は後に名大・医・卒業生関係の大実力者になられたが(今は故人)、今から20年ほど前、当時の若手の山内一信先生や私などの雑魚がご機嫌奉仕に名古屋掖済会病院へ参上した際、梅号病棟の話を持ち出したら、ご機嫌が非常によくなり、「私が今日、命あって生きながらえていられるのは、恩師・齋藤先生と汪主席のお蔭で、本当なら玉砕で死んでいた」と話され、汪主席にまつわる印刷物などを頂戴したことがある。なお太田先生には汪主席から立派な腕時計が贈られ、その写真が今でも残っている。

名大病院入院中の汪主席の精密診断を進めると、当初疑っていた脊椎カリエス(そのため、整形外科の名倉先生や高木先生が主治医団に加わっておられたと思われる)なんぞではなく、悪性の多発性骨髄腫であることが分かった。そして、それを原因とする脊髄麻痺で下半身が動かなくなくなったと診断された。そのとき汪主席の身体に直接ギプス包帯を当ててギプス床を作ることが許されず、脊椎のレントゲン写真だけを頼りにギプス床を作って、それを汪主席の体に適合させたというエピソードも残っている。上述の主治医団の中で、汪主席の診療に一番力を注いだのが齋藤・名倉両教授であったようで、このふたりには後日、杉山元陸軍大臣より感謝状が授与されている。

以下のひとくだりは資料による確認が充分には出来ていないが、当時、主治医のひとりの勝沼先生からの指名で内科系の受持医として梅号病棟に出入りしていた芳賀圭吾先生(後の名古屋第一赤十字病院院長)が汪主席の血液塗抹標本で骨髄腫特有の細胞を見つけ、専門の道で大正15’25)年に学士院賞も受けていたほどの大家・勝沼教授の確認を得た上で、勝沼先生の指示でアメリカ帰りの小宮悦三・東京医大教授のところへ出向いて、標本診断の再確認を得たという。

当時、多発性骨髄腫は手の施しようがない難病で、やがて梅号病棟で汪主席は世を去った<入院から8ヶ月後の昭和19(’44)11月>。遺体は名古屋市郊外の小牧飛行場(来日時と同じく各務原飛行場とする資料もある)から軍用機で故郷・中国へ送り返されたが、このとき見送りグループの代表格は時の小磯國昭首相、既に辞任していた東条英機前首相、さらには、近衛文麿元首相などのお歴々であったことを、当時、中学生だった私は写真入りの新聞記事で知った。主治医団の諸先生がごく限られた数の見送りグループ一同の中に居られたのかどうかは確認できていない。

8.山元先生の檜舞台登場――超多忙の8ヶ月間――

7.で本題の山元先生のお名前をほとんど出さずに、山元先生とは直接の関係がない話をだらだら続けてしまったように見えるが、実は大関係があったはずである。汪主席の梅号病棟入院、そこでの物故という経過の8ヶ月間を中心に、名大医院で一番忙しかったのは裏方担当の医院事務部・山元昌之事務長心得ではなかったのか。名大医院の中での部門間調整はともかく、地元の愛知県・名古屋市はもとより東京の文部省、陸軍省、海軍省、外務省、さらには官僚組織の中枢・内務省などに跨っての連絡・調整は大変な仕事であったろう。当時、市内電話は割合すぐに繋がったと記憶するが、市外電話は電話局に申し込んでから悪くすると数時間待ち(当時でもかなり早く繋がった全国の警察電話網や軍のそれが特例で名大医院へも引かれていた可能性も推測される)、ファックスやメールなどはある筈がない。東京との打ち合わせは電報や速達郵便の利用か、証明書つきで乗車券を手に入れて10時間近く掛けて東海道線列車で誰かが行く他なかった。東京へ着いて宿泊するにも碌な宿が無かったはず。その連絡・調整の厳しい仕事の任に主として当り、名大医院事務全般の総指揮をとったのが山元先生ではなかったのか。ちょっと細かい話になるが、最近の話題になっている道州制の先駆けともいえるのか、臨戦体制の当時、東海北陸連絡長官という中央政府の出張りの高官が名古屋に居て、そのため山元事務長心得の仕事が幾分でも楽になったのか、それとも、かえってやりにくくなったのか、今となってはさっぱり分からない。

また戦争末期であり、翌年にやって来た連続の名古屋空襲で名大医院を始めほとんど全市街が焼け野原になった時より少し前の時期ではあったが、当時は諸物資欠乏で梅号の病棟改装や防空壕作り(陸軍が担当したとされている)は大変であった筈である。上述の特別病棟からの入院患者転室にも一苦労があったろう。しかし後ろに怖い怖い軍が付いており、事務方トップの山元先生の指示は基本的には天皇陛下のご命令であるといった雰囲気が満ちていたことが想像に難くない。山元先生の当時のお仕事は苦労が非常に多かったとともに、遣り甲斐、達成感も格別で、男盛りの時期の山元先生にとって人生のハイライトのひとつであったのではなかったか。

自己顕示が全くなく、むしろそれを恥とし、それを非常に嫌う美学の持ち主であった山元先生から、当時の苦労話を承ったことは永年のお付き合いで一度もなかった。文章として書き残されたものも、私の知る限り全くない。山元先生は今から13年前に89歳のご長寿でこの世を去られたが、ご生前にこちらから積極的に出て、往時の回顧談を少しでも承っておけば良かったと今非常に悔やんでいる。

ただ、汪主席梅号入院に関し、終始黒子であったはずの山元先生が一度だけ世に姿を現されたことがある。それは汪主席死去についての主治医団の新聞発表の際であろうか、写真でテーブルに付かれた齋藤先生、勝沼先生、陸軍軍医大尉の軍服姿の受持医・太田先生はじめ何人かの先生方の後ろで立ったまま書類を読み上げているハンサムボーイの姿が写っている。これぞ当時の山元昌之名大医院事務長心得である。名大医院関連の記事が全国紙の一面トップに出るとか、今なら全国放送のテレビ・ニュースの冒頭に出ることは滅多に無かろうが、写真入りのこのニュースは、当時、全国紙の一面トップと社会面の両方を大きく飾ったと思われる。太田先生と山元先生は年齢も比較的近く(当時、山元先生が40歳前後、太田先生は前述の如く30歳少し過ぎで、主治医団の諸先生から見て、ふたりとも若者)、一連の仕事の上での一心同体・運命共同体の関係にあったはずで、だからこそ、上述の宮島さんの名大退職後の名古屋掖済会病院への再就職の話も、山元先生から太田院長への電話一本で決まったことが肯ける。

<7.、および、8.の記述には、昨平成18年に刊行された「愛知医科大学30年史・通史」で太田元次先生を同大学の創設功労者と位置づけて記載された太田先生の小伝のうちの梅号作戦関連の部分、勝沼先生の回顧録である「勝沼精藏:桂堂夜話」(昭和30年、黎明書房刊)での汪主席入院についての章、および、「名古屋大学50年史・部局史.1,2」(平成元年、名大出版会刊)、ならびに、「同・通史.12」(平成7年、名大出版会刊)を参照した>

9.高齢会長の実績と苦悩――後継者難と若手新会長の登場――

 山元先生は昭和40(’65)年に名大病院を定年退職された後、愛知学院大学や医療秘書などのコースもある国際観光専門学校名古屋校などで教鞭をふるわれ、多くの後進を育成された。そのひとりが前出の水野智前日本赤十字豊田看護大学教授である。昭和40年代の末には愛知医科大学の創設に関連して旧知の同大学の当時の太田元次理事長(7.〜8.に前出)や橋本義雄学長(2.〜4.に前出)に引っ張り出されて同大学の客員教授、および、病院創設準備委員会副委員長に就任され教授会にも出席して助言する役目も背負わられたが、教授会側での受け入れ姿勢が充分ではなく、山元先生はじきに辞任を申し出られた。愛知医大の創設準備期間中にも、同大の設立母体の学校法人(名古屋市西南郊に弥富高校を持ち、女子短大設置を目論でいた両国学園)の役員に選任されておられた時期もあり、愛知医大創設の原動力の太田元次先生と山元先生の間の深い信頼関係が示されている。この辞任の経過には山元先生にとって幾分不満足な事情もあったようで、山元先生としては珍しく愚痴めいたご発言をわれわれに少しもらされていたように記憶している。

 一方、山元先生の名大退職後に発足した東海病院管理学研究会では、その後の橋本初代会長の後任として2代目会長に就任され、上述の如く研究発表・教育講演・事例紹介のための研究集会の年4回開催、毎年の年報刊行の事業を推進された。年4回の研究集会のテーマが毎回の思いつきでバラバラというのではなく、毎年の事業計画で年毎に異なるテーマの柱(例:記憶が正確ではないが、看護婦確保、病院防火・避難体制、入院患者アメニティ、診療録管理などなど)を立て(時に2本の柱)、その年度はその柱に沿って4回の研究集会の話題を企画するという山元方式が出来上がり、今でもそれが続いている。研究集会に機会を見て東京辺りから超大物の講師を招聘する夢も山元先生の頭にあったが、先方の事情もあり何よりも研究会側の招聘予算に厳しい限界があり、その夢は残念ながら一部の実現に留まった。

 山元会長の苦労のひとつは、自宅に居られて事務執行の手兵が手許に全くいないことであった。それで研究会の役員の大物・榊原欣作先生(後に名大病院・高気圧治療部教授、病院長)の口利きで医療機器企業N社の名古屋の店に仮事務局を置いて貰い、そこで会員名簿管理や会計管理の事務を担当して頂く体制に成っていた。しかし、その会社には少なからぬ仕事の負担がかかり、一方、山元会長自身の手許に事務スタッフがいるわけではなく、何かと不便・不都合であったと思われる。ご自宅から電話で上記の仮事務所やわれわれ世話人の中の何人かへ連絡しておられたが、これでは隔靴掻痒で非常にもどかしい思いをされていた筈である。

 今から20年ほど前の昭和60年ごろ、80歳を越えられた山元先生から会長交代の要望が出されたが、橋本初代、山元2代と超大物会長が続いた後を引き継ぐのは容易ではなく、「われわれ世話人の古手の何人かが協力して会務を何とか全部やりますから、名前だけの会長を続けて下さい」とお願いして、そのような複数による会長代行体制を敷いてどうにか仕事に取り掛かろうしていると、名前だけのはずの山元会長からいろいろ指示が飛んできたりして、一時ちょっと混乱しかけたこともあった。遠くから知らぬふりで黙って見ているだけでは気がすまないという、山元先生の律儀さと研究会への一途な傾注ぶりをあらわす一面と言えよう。

 そのようなことが数年続いた後の平成3(’91)年に名大・医に医療情報部が正式に新設され、それまで同病院カルテ部で助手の立場で奮闘されていた山内一信先生が同部教授に昇任された。ここで問題は大きく展開し、その後数年の経過期間を経て、平成8(’96)年に山内先生を山元先生に継ぐ3代目の研究会会長に推戴し(その前の1年間は会長代行)、研究会事務局も山内会長の教室に正式に設置することになった。この事務局移転は、それまでの医療機器企業の店での仮事務所方式では先方にご迷惑が多いということと、研究会の活動がその企業の製品宣伝と関連しているとの誤解が有ってはならないということで、私などが強く主張した結果でもある。この事務所の移行は平成3(’91)年ころのことで、それは山元先生の89歳での物故の3年前である。引き続きそれまでの仮事務局に頼っていた会計業務も含めて、全部が山内教授の教室内の事務局に完全移行したのは、それからさらに6年ほどたった平成9(’97)年である。東海病院管理学研究会は研究・教育の学術団体として40年余の立派な歴史を持つが、その生誕・成長の舞台裏でいろいろの苦しみを味わった経過の一端を記しておきたい。

 それ以後、研究会の運営体制は順次整備され、山内現3代会長の下、数名の幹事と2名の監事を置き会務の執行・監査を実施し、年4回の研究集会開催と毎年の年報発行の2大事業を間違いなく継続することが出来るようになった。以来、10年余、その間の山内会長の大活躍、および、幹事、あるいは、監事諸賢の休みなき貢献により、研究会は押しも押されもせぬ立派な存在になった。幹事や監事としての最年長の宮治眞名市大・医・前助教授や事務局機能の中核を見事に果たして頂いている水野智日本赤十字豊田看護大学前教授(前出)の功績を特筆大書しておきたい。

山内新会長の体制下で名誉会員に推戴された榊原欣作、岩塚徹両先生や顧問に祭り上げて頂いた吉田尚美、安井昭二、柳沢忠各先生や私などの現役を去ったメンバーのいない所で、現役役員だけにより会務の大事なことを決めて欲しいとか、山内新会長の名が天下に響き渡るまでは毎回の例会の座長は必ず山内新会長にやって欲しいとかの要望を出したのは私である。組織がある程度の発展を見ると、私自身をその悪い例の代表として、しばしば老害がもたらされることを身をもって体験した私の老婆心からの余分な心配であったかもしれない。もうひとつ、名前だけの幹事がいては組織活性が失われるので、幹事は年4回の例会に3回は必ず出て欲しいし、その実績が果たせぬ人は、2年ごとの改選で再任してもらわぬように強く要望したのも私であった。

10.全国区での山内一信教授――大型研究費獲得と連続の学会設営――

 これまでの10年余の山内会長時代の東海病院管理学研究会の事業経過は、しっかりした資料、もしくは、確実な記憶を元にして本誌の他の寄稿で綴られよう。また、山内先生の名大・医・教授としての本務での仕事は、研究・教育・管理の3面で多忙を極めたであろうが、遠く離れた立場にあった私には大変に忙しかったであろうとしか分からない。ここでは、名大・医の外にあって、山内教授のいくつかの専門分野での活躍について、大分呆けてしまった私のあいまい記憶にさえもはっきり残っていることの数々につき筆を進める。

助手から教授への3階級特進を果たした山内教授はその誠実な人柄と緻密な頭脳が認められて、じきに全国へ名が売れ出した。東海地区での最初の医療情報学分野の教授ということで、人口でも経済力でも全国の約1割を占める東海地区を代表したという事情も幸いしたのであろう。日本医療情報学会、日本生体医工学会(旧称:日本エム・イー学会)、日本病院管理学会、日本診療録管理学会などの関係学会には、やがて、理事、副会長、もしくは、東海支部長として大きく貢献し、生体医工学会以外はすべて大会長として名古屋での学術集会設営の任を果たした。わが国で医学・医療関係の学術団体は何百、何千とあるが、上記の4学会で診療録管理学会以外の3学会は、全部で100ほどしかない日本医学会分科会としての学会であって、いわばAクラスの学会である。その3学会の学術集会会長や支部長を歴任するというのは、山内教授の実力と人望を示しているといえよう。

ただし、学術組織で重用されるのも良し悪しで、理事会メンバーなどにならされると、その学会組織の中の各種委員会の委員や悪くすると委員長を仰せつかったり、親学会とテーマで関連するサテライト的研究会などの役職も付いて来て、月に何回かの主として東京への出張とか、そのための会議資料準備で大童にさせられる。名刺にそれらの役職を書き並べれば裏表だけでは足りないことにもなる。あらかじめ作っておいたメモをしっかり見ない限り、自分でそれらの役職をひとつも落とさずに全部空で言うことはとても出来まい。この息つく暇もない毎日が、この10数年間の、特にその後半の山内先生の教授生活ではなかったのか。

さらに学術集会設営の経験者の大部分の共通認識であろうが、その設営では準備作業と資金集めで身はクタクタ、心はズタズタになり、もう二度と学会設営はやるまいと後悔する。その見返りとも言えようが、学術集会の会長経験者、あるいは、長期間の支部長経験者は、ある年齢になるとその学会の名誉会員とやらに推戴されるのが通例である。名誉会員になっても特別に良いことはないが、山内先生は上述の日本医学会分科会の3学会から名誉会員への推戴を受けられる見込みで、これは全国の医学部教授で必ずしも多い話ではない。医学部教授を長くやっていても、日本医学会分科会の学会に限ってしまうと、功労会員や特別会員の称号はともかく、名誉会員の称号は自分の専攻する分野の学会のそれひとつだけとか、その方のめぐり合わせの問題ではあろうが、事情によってはそのひとつにさえ恵まれないことがある。

医学部に限らぬことであろうが、教授の仕事で大きなものは研究資金集めである。今は大分事情が改善されてきたように聞くが、以前は平均的な教授で年間何百万円とか、あるいは、それ以上の資金集めに汲々としていた。黙っていても大学からほぼ自動的に交付される研究費を除いての話である。獲得した研究費や資金のうちで学会などへの出張旅費に回せる部分は限定されていて、自分の分だけでも不足してくる。若い教室員、とくに大学院生や中国などからの留学生への旅費支弁はたとえ半額給付にしろ、教授が一番頭や財布を痛めるところである。最近に出て来た旅費にある程度自由に回せる研究助成費などは非常にありがたいが、そういった性格の資金が是非欲しい訳である。

 何年も前の話であるが、山内教授は大型の3年間継続の資金を、日本病院会、および、同会の内部機構の日本診療録管理学会経由で厚生労働省から与えられた。研究というより全国調査の委託費であるが、責務も大きい代わり、必要な旅費などもかなり潤沢に出せ、毎年、分厚い立派な報告書も出された。その経過は本誌の他の寄稿や資料で触れられるであろうから、本稿ではここで留めるが、3年間の事業で総額数千万円の予算の仕事を委託されるといった実績は、各種研究費の稼ぎ手が多い名大・医・教授の中でも余り例が多くない筈である。

 後になってしまったが、全国区で活躍する山内教授は地方区ともいえる地元の愛知県でも見過ごされる筈はない。山内先生は愛知県の医療福祉担当部局である健康福祉部でも主要な委員会の委員や部会長の要職にあって地域への貢献が重ねられている。また。愛知県医師会からもエビデンス・ベースド・メディスン(実証医学)の担当委員や、医師会刊行の学術誌「現代医学」の編集委員幹部役などが山内教授に委嘱されている。

 全国学会での活動実績として先に一括して述べるべきであったかも知れぬが、平成7(’95)年に28年ぶりの名古屋開催になった第24回日本医学会総会に関連しての山内教授の貢献がある。日本医史学会の学術大会が医学会総会と同時期に開かれて、山内教授はその設営に大きな協力をした。医史学会は会員数が1000名に満たない小学会ではあるが、明治25年創立で前述の日本医学会の分科会として1番という並び順を持ついかめしい学術団体である。その時の大会長の大長老・故日比野進・名大名誉教授を補佐して山内教授は大変な苦労を重ねた。また、その総会開催時に、名古屋を中心としての「医学史展示」が総会参加者だけではなく一般市民も対象として開かれたが、その資料集めや尾張地区の医学事跡についての実地検証にも山内教授の足を棒にしての活動があった。当時の山内先生は50歳を越したばかりの若手教授として油が乗り切ったところであり、恩師筋や先輩連にいろいろこき使われる羽目に陥っていたという筋書きである。私もその元凶のひとりで、医学会総会には関係ないが、当時、私が奉職していた藤田保健衛生大学短期大学での病院管理学の特別講義に、年に12回、山内教授に来て頂いていた。この特別講義は私の退職後も続き、現在に至っている。

11.筆の人、弓矢の人、酒に強くない人――山内教授の個人プロフィール――

 山内一信教授の在任10数年間の全国的評価・活動、および、地元での活躍を、前章で簡単に記した。本誌の本来の目的である名大・医・医療管理情報学教室や東海病院管理学研究会での山内教授の貢献の詳細は、本誌の他の寄稿や資料で触れられるであろうし、各種資料を手許に持たない私の筆が及ぶところでは到底ない。ここでは30年を越す山内教授と私のお付き合いで知った山内教授の人知れぬ個人プロフィールにつき少し駄筆を振るいたい。

 私もそのひとりであるが、山内教授から年賀状を頂戴される方は、それを見て毎年一驚されるのではないか。山内教授は墨の達筆家であるが、その筆で年賀挨拶が印刷原版として認められ、また、同じく印刷であるが年賀に相応しい素晴らしい絵も添えられているが、これも山内教授の筆による墨絵である。どこかで習われたお筆か、それとも自学自習のお腕かは尋ねていないが、毎年、私が頂戴するかなりの数の年賀状のうち、一番印象に残る何枚かのひとつである。ただし、今年の山内先生からの年賀状では、絵は例年の自筆の印刷ながら、定年退職予定の幾分長い挨拶が入った文章の字は活字であった。

 山内先生は弓道を修めた方であることを皆様ご存知でしょうか。私は全く知らなかったが、あるとき名大・医の卒業生の同窓会の月刊機関紙「学友時報」に名大弓道部の活動現況紹介が出て、そこに山内一信大先輩の名を見、名大・医の学生時代は、あるいは、今でも弓矢の人であることを知った。

 山内教授は余りアルコールを召し上がらない方である、もしくは、人前を赤い顔と臭い息で歩くことを自粛して、お宅の外では召し上がらないということかも知れない。大していけるわけでもなく、また、赤顔と酒臭おびで人前に出てはいけないことを承知しながら、すぐ、アルコールに走る悪い癖の私との付き合いに、山内先生は、長い間、相当往生して頂いているのではなかろうか。山内先生主宰の大学や学会関連の会合の際、私が今でも厚かましく参加させて頂く会に限ってであろうが、会の途中の食事、あるいは、会の終了後の食事には、大体常に「さんずい」が付いている。ホストの山内教授のお気遣いの結果といつも感謝、敬服している。先般、物故されたが、国立がんセンターの大ボスのある先生は、ご自身は一滴のアルコールも召し上がらないのに、ご主宰の全国グループ研究の委員会開催時には、終了後、必ず懇親会を設けて分担研究者の慰労をし、その格別の気遣いでみんなの敬服を集められ、その研究グループは後年大きく成長したという話を、私が山内教授にお伝えしたことを参考にされたのかもしれない。

もうひとつ、下戸、もしくは、「宅外」下戸と充分承知をしながら、何かの弾みに山内先生をうっかり二次会の酒席に誘ってしまうことが、私に時々あった。これまで、それを断られたことは一度もなかったと記憶する。しかも私が酩酊でぼんやりしている内に、会計まで済ませてしまって頂いたこともあった。山内先生自身は素面でのお気遣いである。「この席を拝借して、厚く厚く御礼申し上げます」と書かざるを得ない。小学校の教科書にも出ているかもしれない短歌をもじって一首ひねれば、「山内教授に向ひて言うことなし 山内教授はありがたきかな」。

12.フィナーレ――長良川鵜飼の総がらみ――

ポツン、ポツンの雨だれ式の遅いパソコン入力でのだらだらした長い駄筆、もう打ち疲れた。山内教授のご出身は岐阜県であるが、ぎふ長良川鵜飼は芭蕉やチャップリンをも楽しませた世界の観光大絵巻である。その川面のフィナーレの総がらみを真似して小稿を閉め括ろうと思ったら、前章で筆・弓矢・アルコールと、鵜飼で鵜を励まそうと鵜匠が船べりを激しく叩いたり、ホーホーと掛け声を出したりするのに相当するタマを、うっかり使い切ってしまった。もう隠し玉として出せるものはない。

最後に一言。山内一信3代目会長の主宰される東海病院管理学研究会は、40年前の設立時の山元昌之2代目会長の意向に沿った形で、日本病院管理学会(近々のうちに日本医療・病院管理学会に名称変更される由)の全国最初の支部として同学会東海支部の形も兼ねる予定もあるとか承っているが、この研究会が21世紀に雄雄しく飛躍して、次の節目の創立50周年を立派に迎えられることを祈念して筆を擱く。 (以上、平成19年5月5日)

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